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認識の齟齬って難しいよね

今月の投稿はすこし真面目な話をします。二回連続重たくてすみません。Twitterで見かけたのですが、堀越耕平先生による連載漫画『僕のヒーローアカデミア』において、「古賀丸太」という名前のキャラが登場したことを受け一部の海外読者が反応し、これに抗議。結局作者側が謝罪文をツイートするとともにキャラ名の変更が決定されたとのことです。今回はこれを受けて考えたことを書いていきます。あくまで中立の立場をとっているつもりですがバイアスかかってね? と思われるところはご指摘ください。また他の皆さんのご意見も頂けたらと思います。

 

さてこれが何故炎上したのかというと「丸太」に問題があるんですね。というのも第2次大戦中の旧陸軍731部隊を想起させるからであると。(731部隊 - Wikipedia)


一言でいえば細菌兵器の実験を行う部隊だったのですが、この部隊では被験者の事を「マルタ」と呼んでいたということでした。彼らは主に捕虜やスパイ容疑者として拘束された朝鮮人、中国人、モンゴル人、アメリカ人、ロシア人等その中には、一般市民、女性や子供までもが含まれていました。

女性や子供を含む人体実験となると、確かに被害を受けている国々の人はかなり敏感になりますよね。一方日本の反応はどうなのかというとほとんどの人がこの騒動の原因を知らなかったようで(実際私もそうなのですが)、この問題が明るみに出たことによって認識した、というようです。

 

それではなぜこのような問題が発生してしまったのか。
第一に歴史認識の問題、第二に意図の取り違いによる問題ではないかと思います。

 

まず第一の問題から。
「丸太」という言葉が上記の内容を指し示すことを知っている人がどれだけ日本にいるでしょうか。おそらくは日本近代史、しかも大学での研究を通して知った、という方が殆どでしょう(或いは高校の授業で先生が話してくれた、とか)。つまり、日本においてこのようなことは歴史の授業で習わないので、よっぽどのことがない限り日本人はこの単語が別の文脈では何を意味するのかを知らずに人生を終えるわけですね。一方で今回講義の声を挙げている中韓の人々はどうでしょうか。Twitterしか見てないので何とも言えませんが、多くの人は歴史の授業の早い段階で習うでしょう。自国の負の歴史の認識を通して再度同じ被害を受けないようにすること、また同じ被害を他国に与えないようにすることが歴史教育の意義の一つでしょうから。

 

第二の問題。
今回の「丸太」という名前、作者の意図によるものなのではないかと考えています。しかし問題はここからで、決して堀越先生が被害者を嘲笑したり差別したりする意図を持っていたわけではないと思います。つまり軽いノリでキャラ名付けたら大地雷を踏んでしまった、というパターンなのではないかと考えています。
具体例を挙げましょう。今回のヒロアカ、主人公緑谷出久(みどりや いづく)は「でくのぼう」から音読みで「デク」となる「出久」が名前であり、ライバルの爆轟克己(ばくごう かつき)はその能力を由来に「爆」と「轟」の字が入り、もっとわかりやすい例を挙げればクラス委員長の飯田天哉(いいだ てんや)は能力名をイメージさせる「韋駄天」を捩ってますよね。このほかにも、ワンピースのキャラは動物名に「ちなんで」、めだかボックスのキャラは九州の地名に「ちなんで」、ドラえもんのキャラも性格や容姿に「ちなんで」名づけられています。つまり、日本において漫画のキャラは何かに「因んで」つけられることが多いと言えましょう。対して海外の作品はどうか。例えばアメコミの代表格マーベル。ネットで調べたところ、この作品のキャラクター名はある法則にのっとって決められていました。
ピーター・パーカー(スパイダーマン)、スティーブン・ストレンジ(ドクター・ストレンジ)、リード・リチャーズ、マット・マードックデアデビル)、ブルース・バナー(ハルク)などがその例。P・P、S・S、R・R、M・M、B・Bと名字と名前の頭文字が同じです。この法則が考え出された理由は、キャラクター名が覚えやすかったからだと言われています。加えて『ハリー・ポッター』シリーズにおけるラスボス、ヴォルデモート卿。彼の名はアナグラムであると作中で解説されますが、原作者J・K・ローリングはフランス語の“vol de la mort”という言葉からヴォルデモートという名前を考え出したそうです。

参考↓

あの映画キャラの名前の由来が意外に考えられている件を紹介! | ciatr[シアター]

中国・韓国に漫画作品はあるようですが今回は詳細が得られなかったため言及は控えます。
要するに日本人にとって(無論日本人だけではないでしょうが)、「なにかに因む」という行為は大変身近な行為であり、故に今回堀越先生は「丸太」を731部隊という「人体実験行為を行った者(達)」という究極の表象に「ちなんで」つけた。しかし抗議をする人々にとって、この「丸太」の名は表象だけではすまされない非常に深い意味を持ち合わせていた。
換言すれば堀越先生も迂闊だった、ということではないでしょうか。

 

さてさてここからが重要なのですが、この問題に直面した今、我々はどうするべきなのでしょう。
まずは感情的にならないのが最優先でしょう。感情的になって訳も分からない議論を進めてしまえばお互いに怨恨を残すだけですからね。そして「現実とフィクション」の違いを明確にする事。これは主に受け取る側の意識ですかね。確かに今回の一連の騒動は軽く流されるべきことではないかもしれませんが、これを受けて芸術の各方面が自粛をしてしまうと言うのは作者にとっても受容者にとっても益々良くない流れを生み出します。それから今回行うべきだったのは争点を最初に明らかにし、論敵にその争点に対する意識を問うことでしょうか。反感を覚えるのは確かに理解できますがそれをそのままストレートにぶつけるのもまた問題ではないかと。

 

「きれいごとやな」と言われるのは重々承知ですが、これが手っ取り早い道ではないでしょうか。知識や認識の差を埋めることは不可能ですから、せめて問題点を明らかにしていく努力は怠らないようにしたいものです。勿論自分がこれを完璧にできているかと問われればそれは自信がありませんが……。兎角、今回の一件は今後の芸術を考えるうえで見逃せないな、と感じたためつらつら書かせていただきました。

 

それではこの辺でおやすみなさい。